書評: 日本経済新聞「ウォール街支える『伊藤の公式』 日本発の数学、金融 AI 補う」を補う (後編)

2026/6/6 @tk

 

中編より

 

Black–Scholes モデルの限界と高度化

話はまた 1970 年代に戻りますが、Black–Scholes の論文が掲載されてから、しばらくの間は Black–Scholes モデルは有効に機能していました。しかし、1987 年のブラック・マンデーを境に、彼らのモデルの説明力は落ちていきました。

Bkach–Scholes の公式 (8) にはボラティリティー・パラメーター が登場します。これは、オプション自体ではなく原資産価格の変動の激しさを表すパラメーターであり、(7) 式の右辺にも登場しています。つまり、行使価格や満期といった他のパラメーターに依存せず、原資産価格過程に対して一意に決まっています。

しかし、ブラック・マンデー以降の金融市場において、実は「行使価格が異なるオプション価格から逆算1したボラティリティーの値が一定にならない」という、所謂ボラティリティー・スマイル (volatility smile) の問題が生じており、最早 Black–Scholes モデルは現実の市場を正しく表せていない事が分かってきました。また、幾何 Brown 運動で与えられる原資産価格過程の収益率は正規分布に従う事になりますが、実際の市場で観測される収益率はそうではなく、「急激な価格の高騰あるいは暴落」を表現出来るような、より高度で複雑な確率モデルが求められるようになりました。例えば、ボラティリティー・パラメーター 自体も確率微分方程式の解とみなし、「ボラティリティー自体も時間と共にランダムに変化する」という確率ボラティリティー (stochastic volatility; SV) モデルに関する研究等が進められました。

これらの背景を下に、現代の数理ファイナンスや金融工学でも使われているような発展的なモデルに基づいた価格付け理論が研究され、実務でも活用されるようになりました。そして、Merton と Scholes は 1994 年に設立されたヘッジファンド会社 Long-Term Capital Management (LTCM) の役員に就任し、当時の最先端の金融工学の技術を駆使した運用により、最初の数年は大きな収益を生み出す事に成功しました。しかし、順調に見えた LTCM の運用も、1997 年のアジア通貨危機及びそれがもたらした 1998 年のロシア財政危機をきっかけに陰りを見せて多額の損失を生み出し、LTCM はそのまま破綻してしまいました。

我々はこれまでに幾度かの大規模な金融危機 (financial crisis) を経験しています。特に、日本ではリーマン・ショックと呼ばれている 2007~2008 年頃の金融危機や、2011 年に起きた東日本大震災とそれに伴う福島原発の問題に端を発する市場の混乱は記憶に新しいところです。市場の構造が急に変化するような大規模なクライシスが生じた場合、過去のデータを使って統計的な計算を行うような数学的な手法はこれまでのように通用しなくなる事がしばしばあります。LTCM の破綻の要因も、必ずしも「価格の変動を表すためのモデルがもっと高度でないといけなかった」という話ではなく、金融リスク管理 (financial risk management) が不十分である事が問題の一つでした。デリバティブ価格理論に関わらず、近年では「大規模なクライシスやそれに伴う市場構造の変化」に耐え得る運用手法に対しても関心が高まっています。

 

バブルと予測可能性

日経記事には、これまで我々が経験した金融危機の例として、過去のいくつかの金融バブルが紹介されています。既に述べたオランダのチューリップ・バブルもその一つですが、日本でも 1980~1990 年代にバブル景気と呼ばれた時代がありました。1720 年頃にイギリスで起きた南海泡沫事件は「バブル経済」の語源と言われています。

バブルとは、金融商品の市場価格が適正価格 (ファンダメンタル価格) から乖離して大幅に上昇する事によって生じ、それが再び適正価格に収斂する過程で大暴落をもたらす現象と言えます。日経記事には、バブルが生じる理由は「(株価等の) 価格の先行きを見通すのは容易ではないため」と書かれています。つまり、バブルの発生は価格の予測可能性と関連付けられる、という事のようです。

日経記事には、伊藤の公式を表す数式のすぐ下に「デリバティブ (金融派生商品) の価格を予測」と書かれています。しかし、既に述べたように、伊藤の公式はデリバティブの価格の「予測」を与えるものではなく、ランダムな (予測出来ない) 原資産価格の上に与えられたデリバティブの「適正な価値」を与えるために活用されています。

Black–Scholes の方程式 (11) において、偏微分方程式の解を と表していましたが、実は とは二つのパラメーターを持つ二変数関数であり、 とは「時刻 において、原資産価格が であった時の ( 時点における) オプションの適正価格」を表しています。Black–Scholes の公式 (8) における とは、(11) 式の PDE の解 を使うと と表されるものです。つまり、「将来時点の原資産価格の予測は出来ないが、もしその価格が であるならば、その値を使って 時点のオプションの適正価格を正確に計算出来る」という事です。

確率微分方程式とはランダムなノイズ項を持つ微分方程式であり、そのノイズを予測する事は出来ません。金融商品の価格の変動を確率微分方程式で表すという事は、「証券価格の将来予測は出来ない」という効率的市場仮説 (efficient market hypothesis; EMH) の立場 (特にウィーク型) に対応しています。市場が効率的であるという事は、市場における情報が瞬時に価格に反映される事を意味しており、「もし裁定機会があっても瞬時に価格調整がなされるため、実質的に裁定機会は存在しない」という無裁定性をも意味しています。但し、効率的市場仮説は「市場が効率的ならば価格は常に適正な値と一致し全く動かない」と主張しているわけではなく、適正な価値からの予測不可能な乖離を許しています。また、実際の市場は常に効率的であるとは限らず、デリバティブの市場価格も理論的な適正価格から外れている可能性もあります。原資産価格に関しても、現実には将来予測の可能性が残されているのかもしれません。

一方で、日経記事は更に、2025 年にリタ・ピメンテル (Rita Pimentel) 准教授らが「AI を使ってデリバティブの価格を予測する技術を開発した」と述べており2、「『ブラック・ショールズ方程式』などよりも高い精度で価格を見積もれる」と続いています。ここでも「予測」という言葉が登場しますが、機械学習や AI に関する文脈で使われる「予測」とは必ずしも「将来の予測」を意味するとは限らない事に注意しなければなりません。寧ろ、ここでの「予測」という言葉は、入力データを使ってデリバティブの (現在の) 適正価格を「推計する」という意味合いで使われています。

Black–Scholes のモデルがそのままの形で使われていたのは 1980 年代の頃であり、現代ではより高度なモデルを使って、現実的な制約条件の下でデリバティブの価格評価がなされています。そのため、AI を使った最近のモデルと Black–Scholes モデルをそのまま横比較する事は適切ではないかもしれません。しかし、現代のデリバティブ価格理論でも、(8) 式のように、価格評価のためにはボラティリティーという「目に見えないパラメーター」が使われている点は概ね変わっておらず、「ボラティリティーをどのように推計するか」を考えなければなりません。それに対して Pimentel らの研究は「機械学習の技術を使って、ボラティリティーの推計というプロセスを経ずに、過去の時系列データとデリバティブの契約条件を入力データとしてデリバティブの価格を出力する」というアプローチを取っています。使われている技術は必ずしも従来の金融工学の枠組みに収まらないかもしれませんが、目的は同じく「デリバティブの適正価格の計算」です。これは、「将来の株価等の予測」とは切り離して考えられるべき問題です。

AI を使って将来の株価の予測が出来れば、バブルの発生を防ぐ事は出来るのでしょうか。「完璧な株価の予測」が出来るならば、それによって実態経済を大きく離れた株価の乱高下のような状況は防げるかもしれません3。しかし一方で、市場参加者が AI に従って皆同じような行動をした場合、市場における多様性 (diversity) の低下が生じてしまう可能性もあります。つまり、皆が同じような売買をした結果、「市場参加者は皆一蓮托生、落ちる時は皆まとめて落ちる」という状況を生み出してしまう事も考えられます。この問題は「金融システム全体が機能不全に陥る」というシステミック・リスク (systemic risk) と関係しています。また AI に限らず、情報技術の発展に伴い、コンピューターを使った高頻度取引 (high frequency trading ; HFT) が普及した結果、「瞬間的に市場価格が乱高下する」というフラッシュ・クラッシュ (flash crash) と呼ばれる新たなクライシスも観測されるようになりました4。今後、AI によるトレーディング手法が更に発展する事によって、従来とは異なる新しい形のバブルの発生や崩壊ももたらされてしまうかもしれません。

市場参加者の行動が市場価格に影響を与えるのと同様に、HFT におけるアルゴリズムや AI による取引行動もまた市場価格の形成にも影響を与えると考えられます。高頻度データの活用や高頻度取引が可能になった現代では、従来よりも短い時間間隔における価格変化をモデル化する必要が生じ、そこでは「ボラティリティーの変動が確率微分方程式に従う」どころか「ボラティリティーの変動が従来の確率微分方程式では表せない」というラフ・ボラティリティー (rough volatility) の問題が生じる事も分かってきました。この場合、従来の伊藤解析をそのままの形で活用する事にも限界が見られ、Terry Lyons によって創始されたラフ・パス (rough path) の理論に注目が集まる等、数学理論の研究の進展にも期待が高まります。

 

まとめ

元の日経記事に対してかなり長い書評となってしまいました。日経記事では恐らく文字数の制約により十分触れられなかった内容もあると思われますが、「伊藤解析の誕生」から「金融工学への応用」、そして「AI によるこれからの金融取引」まで包括的に扱うとなると、本来どうしてもそれなりの分量の説明が必要になってしまいます5

2026 年現在、生成 AI の性能は飛躍的に向上しており、これからの AI が金融市場でどのように活用されていくのか、そしてそれが金融市場をどう変えていくのか…まさしく将来の見通しが難しい問題ですが、しかしどのような未来が訪れたとしても、伊藤先生をはじめとする数々の研究者のこれまでの功績が失われる事はありません。


  1. (7) 式から定まるオプションの理論価格と実際の市場価格が一致するように調整されたボラティリティー の事をインプライド・ボラティリティー (implied volatlitiy; IV) と呼びます。IV は行使価格 等の値を所与として計算されるため、 が異なると IV の値も異なる可能性があります。
  2. Pimentel, R., Risstad, M., Rogde, S. et al., “Option Pricing with Deep Learning: a Long Short-term Memory Approach,” Decisions Econ. Finan. (2025). https://doi.org/10.1007/s10203-025-00518-9
  3. 但し、どんなに株価の予測が正確に出来たとしても、完全に効率的な市場が実現するとは考えにくく、この問題は Grossman–Stiglitz のパラドックスとして知られています。
  4. システミック・リスクに関する話題については、弊所代表理事の加藤 恭と弊所フェローの山中 卓による 2014 年のサーベイ論文「システミックリスクに纏わる数理モデルについて」もご参照下さい。
  5. 単に筆者が「文章を短く分かりやすくまとめるのが苦手」という問題がある事も認識しています…

※ AMFiL Blog の記事を含む、本ウェブサイトで公開されている全てのコンテンツについての著作権は、一般社団法人数理ファイナンス研究所 (AMFiL) 及びブログ記事の寄稿者に帰属します。いかなる目的であれ、無断での複製、転送、改編、修正、追加等の行為を禁止します。