書評: 日本経済新聞「ウォール街支える『伊藤の公式』 日本発の数学、金融 AI 補う」を補う (後編)

2026/6/6 @tk

 

中編より

 

Black–Scholes モデルの限界と高度化

話はまた 1970 年代に戻りますが、Black–Scholes の論文が掲載されてから、しばらくの間は Black–Scholes モデルは有効に機能していました。しかし、1987 年のブラック・マンデーを境に、彼らのモデルの説明力は落ちていきました。

Bkach–Scholes の公式 (8) にはボラティリティー・パラメーター が登場します。これは、オプション自体ではなく原資産価格の変動の激しさを表すパラメーターであり、(7) 式の右辺にも登場しています。つまり、行使価格や満期といった他のパラメーターに依存せず、原資産価格過程に対して一意に決まっています。

しかし、ブラック・マンデー以降の金融市場において、実は「行使価格が異なるオプション価格から逆算1したボラティリティーの値が一定にならない」という、所謂ボラティリティー・スマイル (volatility smile)続きを読む

書評: 日本経済新聞「ウォール街支える『伊藤の公式』 日本発の数学、金融 AI 補う」を補う (中編)

2026/6/6 @tk

 

前編より

 

Black–Scholes 方程式と伊藤の「補題 (レンマ)」

日経記事に関する「日本経済新聞 電子版 (日経電子版)」公式 X (旧 Twitter) アカウントのこのポストに対するコメントを見ると、「伊藤の公式とは伊藤の補題の事なのでは」「伊藤の補題や伊藤のレンマという名称は聞いた事があるが、伊藤の公式というのは聞いた事が無い」といった趣旨のものがいくつか見られます。またコメントの中で、生成 AI が「英語圏では主に Itô’s lemma と呼ばれ」ると回答しているものもありました。しかし、数学の分野では (3) 式はあくまで「伊藤の公式」と呼ばれるものであって、「伊藤の補題」や「伊藤のレンマ」という名称は金融工学の研究者や金融実務家が良く用いるものです。呼称が異なる理由は言語圏の違いというわけではありません。何故、伊藤の公式は伊藤の補題 (レンマ) として広く知られるようになったのでしょうか?

デリバティブ価格の理論と伊藤解析、特に「伊藤の公式」が直接結びついたのは … 続きを読む

書評: 日本経済新聞「ウォール街支える『伊藤の公式』 日本発の数学、金融 AI 補う」を補う (前編)

2026/6/6 @tk

先日、日本経済新聞社の記者の方からの取材に弊所代表理事が応じ、それを踏まえた下記の記事 (以下、日経記事と呼びます) が 2026/4/4 に公開されました。

ウォール街支える「伊藤の公式」 日本発の数学、金融AI補う (世界は数学でできている③) (会員限定記事)

ここでは、日経記事では触れられなかったもう少し詳しい背景や、誤解を招く恐れのある表現等について補足するべく、「伊藤解析とデリバティブ価格理論」と題して短期連載を始めたいと思います。今回は「書評」という形で、日経記事の内容を振り返りながら、そのストーリーに基づいて、これまでの金融工学の進展についてもう少し広い話題に触れてみたいと思います。

なお、以下で登場する数学の用語や概念のいくつかは、弊所のブログの別の連載「初等解析学 (微分積分学) 入門」で扱われており、それらに関しては適宜該当する記事へのリンクを張っているので、詳しくはそちらのリンク先の記事をご参照下さい。但し、今回の記事を理解するためには大学以上の数学の知識は必要ありません。いくつか高度な数式も登場しますが、それは「雰囲気」を醸し出すためのものに過ぎません。

さて、上記の日経記事は「世界は数学でできている」という連載記事の 3 回目であり、「金融市場において現代数学がどのように使われているか」がテーマです。日本経済新聞のこの記事では、現代数学の主要な研究分野として「圏論」「集合論」「公理的確率論」が挙げられていますが1、数理ファイナンスや金融工学はこの中の公理的確率論を使って研究がなされるのが一般的です。そして、現代の確率論において最も幅広く活用されているといっても過言ではないのが、伊藤 清 (いとう きよし) … 続きを読む