先日、日本経済新聞社の記者の方からの取材に弊所代表理事が応じ、それを踏まえた下記の記事 (以下、日経記事と呼びます) が 2026/4/4 に公開されました。
ウォール街支える「伊藤の公式」 日本発の数学、金融AI補う (世界は数学でできている③) (会員限定記事)
ここでは、日経記事では触れられなかったもう少し詳しい背景や、誤解を招く恐れのある表現等について補足するべく、「伊藤解析とデリバティブ価格理論」と題して短期連載を始めたいと思います。今回は「書評」という形で、日経記事の内容を振り返りながら、そのストーリーに基づいて、これまでの金融工学の進展についてもう少し広い話題に触れてみたいと思います。
なお、以下で登場する数学の用語や概念のいくつかは、弊所のブログの別の連載「初等解析学 (微分積分学) 入門」で扱われており、それらに関しては適宜該当する記事へのリンクを張っているので、詳しくはそちらのリンク先の記事をご参照下さい。但し、今回の記事を理解するためには大学以上の数学の知識は必要ありません。いくつか高度な数式も登場しますが、それは「雰囲気」を醸し出すためのものに過ぎません。
さて、上記の日経記事は「世界は数学でできている」という連載記事の 3 回目であり、「金融市場において現代数学がどのように使われているか」がテーマです。日本経済新聞のこの記事では、現代数学の主要な研究分野として「圏論」「集合論」「公理的確率論」が挙げられていますが1、数理ファイナンスや金融工学はこの中の公理的確率論を使って研究がなされるのが一般的です。そして、現代の確率論において最も幅広く活用されているといっても過言ではないのが、伊藤 清 (いとう きよし) 先生によって確立された確率微分方程式 (stochastic differential equation; SDE) の理論で、伊藤解析 (Itô calculus) とも呼ばれています。この伊藤解析がデリバティブ (金融派生商品) と呼ばれる商品の適正価格を決めるための要の理論となり、伊藤先生は 2006 年にガウス賞と呼ばれる「社会への応用が進んだ数学の研究成果を顕彰する賞」の初めての受賞者となりました。日経記事は更に近年の AI (人工知能) の金融取引への活用事情にも触れ、AI の弱点を伊藤解析のような数学理論によって補い、それによってバブルの発生や崩壊を防げるか否かの可能性について論じています。
伊藤 清先生の功績
伊藤 清先生は 1918 年に生まれ、1942 年の論文「Markoff 過程ヲ定メル微分方程式」から始まる一連の研究によって、確率微分方程式の理論を構築されました。日経記事のタイトルにもある「伊藤の公式」の原型は、この 1942 年の論文で既に「例」として登場しています。
確率微分方程式とは、ランダムに値が変動するようなノイズ項を含んだ微分方程式を意味しています。微分方程式とは「微分を含んだ方程式」の事ですが、ここでは主に時刻 をパラメーターとして持つ関数が満たす方程式を考えます。
ランダムな変動を数学的に表す際に本質的な役割を果たすのは Brown 運動 (Brownian motion) と呼ばれる確率過程 (stochastic process) です。Brown 運動とは、本来は植物学者の Robert Brown が発見した「花粉から水中に流出した微粒子が不規則に動く運動」の事で、1827 年に論文として発表されました。一方、1923 年頃、確率過程としての Brown 運動を数学的に構成したのは Norbert Wiener という数学者です。そのため、確率過程としての Brown 運動の事を Wiener 過程 (Wiener process) と呼ぶ事もあり、確率論では や という記号を使って表すのが一般的です。ここで、確率過程とは「各時点における値が確率変数 (ランダムな値を持つ関数) として与えられるような関数 (時系列)」の事です (厳密な定義はここでは割愛します)。

確率微分方程式とは以下のような形で表される「微分方程式」の事です。 ここで、 は所与の実数値関数、 は時刻の微小増分、 は Brown 運動 の微小増分 (ホワイトノイズ) を意味しています2。左辺の は、直観的には時刻が から に変化した時の微小増分 に対応しています。
(1) 式を積分型で書くと以下のようになります。 実は、(1) 式で出て来る や という量は厳密に数学的に定義されるものではなく、確率微分方程式とは (2) 式で表される「確率積分方程式」として与えられます。しかし、「確率過程の変動を表す方程式」としては微分方程式の方が直観的に分かりやすいので、インテグラルの記号を外してあえて (1) 式のように書かれるのが一般的です。即ち、 が (2) 式を満たす時「 は確率微分方程式 (1) の解である」と呼ばれます。
さて、(2) 式右辺の第一項は通常の積分であり3、これは伊藤解析を用いずとも、古典的なやり方で定義する事が出来ます。問題は第二項の「 を使った積分」で、これを厳密に定義したのも伊藤先生の功績であり、この積分は確率積分 (stochastic integral) または伊藤積分 (Itô integral) と呼ばれています。
初等的な微分積分の計算で主に使われる道具として微分積分学の基本定理 (fundamental theorem of calculus) や連鎖律 (chain rule) が知られていますが、その確率積分版を与えるのが次の伊藤の公式 (Itô’s formula) で、日経記事にも下記と同等の数式が登場しています。 詳細は次回以降の記事で解説したいと思いますが、(3) 式右辺の第二項が出て来るのが伊藤の公式の特徴で、これは Brown 運動の二次変分 (quadratic variation) の性質 によって導かれます。(4) 式は数学的に厳密な表現ではありませんが、伊藤の公式を直観的に理解するのに便利な関係式であり、(4) 式に相当する性質を理論物理学の観点から示したのは、かの有名な物理学者 Albert Einstein で、1905 年の事でした。
ここではこれ以上数学的内容に深入りするのは避けますが、以上の事から、確率微分方程式の理論における伊藤先生の最大の功績は「伊藤積分を定義し」「伊藤の公式を示して」「伊藤解析を確立した」事と言えます。つまり、現代の確率微分方程式の理論の骨格は全て伊藤先生によって与えられたものなのです。
日経記事には、伊藤先生が「株価などが変化する確率に関する数式を編み出し」た、とあります。文脈からすると、この数式とは「伊藤の公式」を意味するようにも読み取れてしまいますが、どちらかというと、ここで指している「数式」とは確率微分方程式の事と捉えた方が良いでしょう4。同様に、日経記事には弊所代表理事の言葉として「伊藤の公式は金融資産の値動きを数学で表現する基本的な枠組みをつくった」と書かれていますが、やはりこれも伊藤の公式というだけでなく、伊藤解析自体が現代のファイナンス理論 (特に数理ファイナンスや金融工学) における基本的な枠組みを与えていると言えます。但し、伊藤先生自身は「金融資産の値動きを数学で表現したい」と考えていたわけではありません。
伊藤先生は確率論の分野における研究者であり数学者であって、経済学者でも金融の専門家でもありません。詳細は省略しますが、伊藤先生のモチベーションは「連続な経路を持つ Markov 過程5を直接的に構成するための新しい解析学の枠組みを構築したい」という、あくまで数学的なものでした。勿論、「ランダムな項を持つ微分方程式」は様々な分野に応用される可能性がある事に伊藤先生が気付いていたとしてもおかしくはありませんが、まさかファイナンスの分野で伊藤解析がここまで中心的な役割を果たす理論になるとは思っておらず、それが日経記事にある伊藤先生の「私の想像を超えた領域にまで成果が応用された」という言葉に繋がっているのかもしれません。
なお伊藤先生は、ご自身が確立した伊藤解析が金融の世界で常識的に使われているという事実を知った時、喜びよりも寧ろ大きな不安を感じたそうです。伊藤先生は 1998 年の京都賞受賞記念講演会の原稿の中で「私は、如何なる時代の、如何なる名のもとに行われる戦争にも反対したいと思っておりますが、ここで『経済戦争』にも反対したいことを付け加えたいと思います」「『経済』の一部である『金融』から、更に派生したに過ぎない商品や、そのディーラーの名のもとに行われる戦争を一刻も早く終わらせて、有為の若者たちを故郷の数学教室に帰していただきたいと思うのは妄想でしょうか」と綴っています。
金融工学の始まり
一方、伊藤先生の研究とは関係なく、金融市場では古くから金融派生商品あるいはデリバティブ (derivative) と呼ばれる金融商品の取引がなされていました。その歴史は大変古く、オプション取引の原型は既に古代ギリシャの時代に存在していたと言われています。日経記事でも紹介されている、17 世紀前半に起きたオランダのチューリップ・バブルでも、オプションと同様の取引手法が投機的に利用されていました (日本経済新聞のこの記事にも紹介されています)。先物取引の起源は日本の堂島米会所と言われており、1730 年から公式に米の先物取引が行われていました。
デリバティブとは、元となる既存の金融資産 (原資産 = underlying asset) の価格に基づいて価値が決まるような商品の事です。上で登場したオプションとは「将来の決められた時点 (満期 = maturity) で (あるいはその時点より前に)、現時点で決めた価格 (行使価格 = strike price) で原資産を購入あるいは売却する権利」の事で、「購入する権利」をコール・オプション、「売却する権利」をプット・オプションと呼びます。先物とは「現時点で決めた価格によって、将来の決められた時点で原資産を売買する契約」を意味しています[^6]。例えば、満期時点 における原資産価格が である時、行使価格を とするコール・オプションの 時点での価値 (ペイオフ) は以下の式で与えられます。 ここで、右辺は「 と の大きい方」を意味しています (今回は詳細を省略します)。
「デリバティブの適切な価値をどのように評価すれば良いか」は経済学や金融実務において古くから大きな関心が持たれていました。現代の数理ファイナンスや金融工学における考え方の礎となったのは、Louis Bachelier による 1900 年の博士論文「投機の理論 (Théorie de la Spéculation)」と言われています。Bachelier は、オプションに関する数理モデルを、現代でいうところの Brown 運動 を使って (数学的に厳密ではありませんが) 定式化しました。具体的には、原資産価格 を と表し、その下でオプションの現在価値を「ペイオフの期待値」として導出しました。ここで、 は現代でいうところのボラティリティー (volatility) という、価格変動の激しさを表すパラメーターに対応する値です (やはり詳細は次回以降の記事に譲ります)。
Bachelier のモデルは、デリバティブの価格理論が構築された現代から改めて見返すと驚くべき本質的なポイントを捉えているのですが、一方でこれでは「原資産価格が負の値になってしまう」という問題がある事が指摘されていました。発表当時はあまり評価されなかった Bachelier の研究ですが、彼の研究は逝去後に再発見され、ファイナンス理論の始祖として高く評価されるようになりました。
実は (5) 式の Brown 運動の増分に関する関係式を Bachelier は既に (Einstein よりも 5 年早く) 本質的に見抜いており、その後伊藤先生へと続く確率過程論の研究の礎にもなっていました。公理的確率論の創始者である Andrei Kolmogorov は、1931 年の自身の論文の中で「私が知る限り、時間と共に連続的に変化する確率に対する系統的な研究を初めて行ったのは Bachelier である」と綴っています。Bachelier の研究は「数学」と「ファイナンス」の両面において数理ファイナンス理論の出発点となる洞察を与えていたのです。そして、1996 年に Bachelier の名を冠した国際組織 Bachelier Finance Society が設立され、2000 年以降は国際会議 Bachelier World Congress が 2 年に 1 度開催されています。
その後、1960年前後から、原資産価格そのものではなくその「収益率」を Brown 運動によってモデル化する方が良い、と考えられるようになりました。その場合、原資産価格が満たす確率過程は幾何 Brown 運動 (geometric Brownian motion) と呼ばれ、現代でも証券価格を表す基本的な確率過程のモデルとして幅広く用いられています。確率微分方程式では以下のように表されます。 は期待収益率を表すパラメーターであり、ドリフト係数とも呼ばれます。 は、先程登場したボラティリティーを表すパラメーターです。(7) 式から の具体的な形を得る (言い換えると、確率微分方程式 (7) を解く) のは伊藤の公式の良い演習問題と言えるでしょう。
- これらは必ずしも横並びに出来る研究分野ではない事に注意が必要です。現代数学の多くの分野は集合論を言語としており、その下で数学の研究分野は「代数」「幾何」「解析」に大別され、公理的確率論は解析学の中の一分野です。圏論とは集合論よりもさらに抽象的な分野であり、集合論を「圏論の研究対象の一つ」とみなす事も出来ます。また圏論の立場から確率空間の集まりを捉える事で、既存の確率解析では記述出来ないような市場の構造を扱う、という数理ファイナンス分野の研究もあり、弊所フェローの足立 高德・原 啓介両氏による共同研究も進行中です。↩
- 通常、時刻 の関数は のように小括弧を使って書くのが一般的ですが、確率論、特に確率過程論では、時刻のパラメータを右下に小さく表記する習慣があります。↩
- 一般的にはこれは Lebesgue 積分として定義されるものですが、 が数学的に良い性質を持つ場合は普通の積分と考えて問題ありません。↩
- 但し、確率微分方程式は「株価などの変化」そのものを記述する方程式であり、変化の確率を表すものではありません。↩
- Markov 過程とは、伊藤先生の 1942 の論文のタイトルにある Markoff 過程と同じものです。Markoff は旧綴りであり、現代では Markov の表記が用いられるのが一般的です。↩
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