Black–Scholes 方程式と伊藤の「補題 (レンマ)」
日経記事に関する「日本経済新聞 電子版 (日経電子版)」公式 X (旧 Twitter) アカウントのこのポストに対するコメントを見ると、「伊藤の公式とは伊藤の補題の事なのでは」「伊藤の補題や伊藤のレンマという名称は聞いた事があるが、伊藤の公式というのは聞いた事が無い」といった趣旨のものがいくつか見られます。またコメントの中で、生成 AI が「英語圏では主に Itô’s lemma と呼ばれ」ると回答しているものもありました。しかし、数学の分野では (3) 式はあくまで「伊藤の公式」と呼ばれるものであって、「伊藤の補題」や「伊藤のレンマ」という名称は金融工学の研究者や金融実務家が良く用いるものです。呼称が異なる理由は言語圏の違いというわけではありません。何故、伊藤の公式は伊藤の補題 (レンマ) として広く知られるようになったのでしょうか?
デリバティブ価格の理論と伊藤解析、特に「伊藤の公式」が直接結びついたのは 1970 年頃の事でした。 伊藤の公式自体は、既に述べた通り 1942 年の伊藤先生の論文に原型が現れていましたが、1951 年の論文 “On a Formula Concerning Stochastic Differentials” に、(3) 式より遥かに一般化された公式が「主定理」として、詳細な証明と共に掲載されました。しかしこの時点では、デリバティブ価格の理論と明確な繋がりは見られません。
ファイナンスの分野において伊藤の公式が脚光を浴びたのは、1970 年代前半に学術論文誌に掲載された、Fisher Black, Robert Merton 及び Myron Scholes による一連の研究です。特に、Black と Scholes による 1973 年の論文 “The Pricing of Options and Corporate Liabilities” によって、現在の金融工学でも必須となる次の Black–Scholes の公式が導かれました。 但し と は次で与えられます。 たくさんの記号が登場するので今回は各記号の説明を省略しますが、上の数式は、時点 におけるコールオプションの「適正価格」が、 時点の原資産価格 を使って明示的に表せる事を意味しています1。ここで という極限を取ってみると、(8) 式の値は (5) 式の に収束します。
原資産が幾何 Brown 運動に従う時のオプションの適正な価格に関して、1960 年代中頃に Case Sprenkle, James Boness, Paul Samuelson らによって研究が進められ2、(8) 式に近い価格公式もいくつか得られていました。それに対して Black と Scholes の研究が特徴的だったのは、「市場で取引されている金融資産を適切に組み合わせる事で、満期時点におけるオプションのペイオフを完全に複製する (replicate) 事が出来るならば、そのポートフォリオ (金融資産の保有量の組み合わせ) の価値はオプションの価値と等しい」という、現代の無裁定価格理論 (arbitrage-free pricing theory) の考え方を提唱している点です。
裁定 (arbitrage) とは、一言で言えば「リスク無しでただ儲けが出来る機会」の事です。上のように、オプションのペイオフを複製するポートフォリオが組める時、もし初期時点のオプション価格がそのポートフォリオを組むためのコストよりも高いのならば、初期時点でオプションを 1 単位売って複製ポートフォリオを組めば、終端時刻でこれらの価値は一致するので、満期時点における精算額はプラスマイナスゼロとなり、初期時点において「オプションの価格-ポートフォリオの価格」の分だけただ儲けが出来る事になります。逆もまた然りで、もし初期時点でオプション価格の方がポートフォリオの価値よりも安いのであれば、オプションを買って、ポートフォリオの逆 (つまり買いと売りを入れ替える) を組めばやはりただ儲けが出来てしまいます。市場の機能が正常であれば、そのようなただ儲けの機会は直ちに調整されてしまうため、「そんなうまい話は存在しない」という事になります。よって、オプションの適正な現在価値は複製ポートフォリオを構築するためのコストと一致する、というのが Black と Scholes の論文の本質的な考え方です。
但し、Black と Scholes の研究における計算方法はやや直観的であり、数学的に厳密とは言えない部分も残っていました。それを (ある程度) 数学的に正当化したのが Robert Merton による 1973 年の論文 “Theory of Rational Option Pricing” です。実は、Merton はこの論文の中で明確に “by Itô’s Lemma” (「伊藤の補題により」) という表現を用いており、更に脚注の中で「伊藤の補題とは、微分積分学の基本定理の確率版である」と書いています。そして、Merton が論文中で引用した、伊藤の公式を lemma として記している教科書こそ、Henry McKean によって 1969 年に執筆・出版された Stochastic Integrals だったのです3。
その後、Black–Scholes の公式は金融実務家達から大きな注目を浴び、デリバティブ取引実務において爆発的に活用されるようになりました。そして、金融工学の分野において、Merton の論文に登場する Itô’s Lemma という言葉が独り歩きをし、「伊藤の補題がデリバティブ価格理論に革命をもたらした」と考えられるようになった、というわけです。
彼らの研究は学術的にすぐに評価されたわけではなく、経済学者達からは批判の声もしばらく続きました。しかし、後に登場する無裁定価格理論の経済学的な整合性に関する研究等を経て、Merton と Scholes は 1997 年にノーベル経済学賞4を受賞しました (Black は既に亡くなっていました)。そして、既に述べた通り伊藤先生は 2006 年にガウス賞を受賞する事となります5。
無裁定価格理論
Black–Scholes 及び Merton の論文では、オプション価格が満たす次の偏微分方程式 (partial differential equation; PDE) を導いてこれを解く、という方法が使われていました。 現代では (11) 式は Black–Scholes 方程式として知られています。一方、Black, Merton, Scholes によるデリバティブ理論はその後の Michael Harrison, David Kreps, Stanley Pliska らの研究によって大幅に一般化されると共に洗練され、今では「偏微分方程式を経由してデリバティブの適正価格を評価する」のではなく、「ある確率測度の下で原資産の割引価格の期待値を取る」という方法が取られています6。確率測度とは「各々の事象が起きる確率」を表すものであり、例えば公平なコイン投げを行う場合の確率測度 は「表が出る確率が 」「裏が出る確率が 」として与えられます。
「原資産価格過程を割り引いて期待値を取る」という考え方は Black–Scholes 以前の研究でも良く用いられていましたが、「どのようなレートで割り引けば良いのか」については意見が分かれていました。Black–Scholes の公式は本質的に安全利子率 (リスクの無い安全資産の利子率) で割り引く事によって得られるのですが、実はその際、確率測度を適切なものに変換してやる必要がある、というのが現代の無裁定価格理論の考え方であり、その変換された確率測度は同値マルチンゲール測度 (equivalent martingale measure; EMM) またはリスク中立確率測度 (risk-neutral probability measure) と呼ばれます。上記のコイン投げの例で言えば、 ではなく「表が出る確率が 」「裏が出る確率が 」のような確率を与える測度 を考えるようなものです。
更に、EMM の存在や一意性が金融市場の健全性と深く結びついている事が Harrison らの一連の研究によって明らかとなりました。具体的には、「市場に裁定取引が存在しない (無裁定)」事は EMM の存在と同値であり、「(ある数学的仮定を満たす) 如何なる条件付請求権7に対しても複製ポートフォリオをいつでも組む事が出来る」事は EMM の一意性と同値です。これらの性質は、今では数理ファイナンスの基本定理 (fundamental theorem of mathematical finance) として知られています8。Black, Merton, Scholes らの研究では「原資産価格過程は幾何 Brown 運動に従う」と仮定されていましたが、数理ファイナンスの基本定理は原資産価格過程に特定のモデルを仮定する事なく、一般論として成り立つ重要な定理です。
これで数理ファイナンスや金融工学の現代的な理論が完成したように思われますが、実は数学的な課題はまだ残っています。上の基本定理がそのまま成り立つのは、金融市場のモデルが離散時間である場合の事で、連続時間の場合はそのままの形では基本定理が成り立たず、数学的に更に深い構造を考える必要があり、Freddy Delbaen, Walter Schachermayer, 高岡 浩一郎先生等、多くの研究者によって研究が続けられました。そして、「無裁定」の数学的な定義を適切に与える事で、連続時間でも基本定理が成立する事が分かってきました。
- プット・オプションについても同様の公式を導く事が出来ますが、ここでは省略します。なお、厳密にはここで扱っているオプションは「ヨーロピアン・オプション」と呼ばれるものなのですが、「ヨーロピアン」という言葉の意味もここでは省略します。以下では単にオプションといえばヨーロピアン・コール・オプションの事を指しているものとして下さい。↩
- 当時はオプションではなくワラントを対象としている論文も多いのですが、適当な仮定の下では、少なくとも数学的にはこれらは同一の数式で扱えます。↩
- McKean は 1930 年生まれの数学者で、1965 年に伊藤先生と共著で Diffusion Processes and Their Sample Paths という教科書も書いています。↩
- 伊藤先生はガウス賞以外にも様々な賞を受賞されていますが、その中でも特に 1987 年にウルフ賞を受賞された際、授賞説明文の中で「伊藤解析は確率論における Newton の法則である」と評されています。↩
- これは厳密にはノーベル賞ではなく、Alfred Nobel の名前を冠した、スウェーデン国立銀行が賞金を拠出する学術賞 (スウェーデン国立銀行賞) です。なお、日経記事には「伊藤の公式の影響を受けた 2 人の研究者が開発し、ノーベル経済学賞の受賞テーマにもなった『ブラック・ショールズ方程式』」という記載がありますが、本文中で触れた通り、Black と Scholes が揃ってノーベル経済学賞を受賞したわけではありません。↩
- 期待値によって与えられるオプション価格を計算するために、このオプション価格が満たす偏微分方程式を後から導く、という手法は今も幅広く使われています。↩
- 一般のペイオフを持つヨーロピアン・オプションの事と思って下さい (「ヨーロピアン」の説明もしていませんが…)。↩
- 分野によって「アセット・プライシングの基本定理」等とも呼ばれます。↩
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